ご祭神事績
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少年時のきびしい教育
乃木希典、幼名・無人は、江戸時代末期の嘉永2年(1849年)11月11日に長府藩に三男として生まれます。生まれつき体があまり丈夫ではなく、泣き虫な少年でした。
無人(なきと)という名前は、上の兄2人がすでに若くして亡くなっていたため、強く健康に成長してほしいという願いが込められていました。
妹のキネが風邪で寝ている時枕元にそっとお土産を買ってくるような優しさを持った少年でしたが、父母は体の強い立派な武士に育てようとあえて厳しく無人を鍛えていきました。
無人は父母の厳しい愛の中で成長していきます。
学問との出会い
15歳で元服し、学問への道を志していた源三(元服した時の名)は、武士になって欲しいという父と意見が合わず、悩みぬいた末に、吉田松陰の叔父にあたる松下村塾の創始者・玉木文之進の下へ出奔しました。
玉木家は乃木家から別れた家柄であり、両家の関係は深いものでしたが、玉木先生は父の許しを得ずに訪れたことを責め、長府から萩まで70km以上の道のりを歩いてきた源三を追い返そうとします。
この時、玉木先生の辰子夫人が引き止めてくれたので何とか玉木家でお世話になることが出来たのです。
しかし、はじめは玉木先生から学問の教えを受けることは出来ず、昼は農作業で汗を流し、夜は辰子夫人に教えを受けるという日々が続きました。根が真面目な性格な源三は1年が過ぎる頃には、ひ弱だった身体が別人のようにたくましく成長し、玉木先生も少しずつ学問を教えてくれるようになりました。
青年将校時代、結婚
萩の乱
源三は名を文蔵と改め、学問だけではなく武芸にも優れた青年として、その名を高めていきました。18歳の時に第二次長州征伐で長府藩報国隊として初陣を果たし、左足を負傷しつつも、見事幕府軍を打ち破ります。
明治維新を迎えた明治4年、文蔵は23歳の若さで明治政府の陸軍少佐となり、名前も希典と改めて青年将校の道を歩み始めました。
しかし、明治政府の矢継ぎ早の政策は、地方の古い武士層の不満を高め、各地で反乱が頻発していました。
希典の恩師玉木先生やその養子となった実弟・正誼(まさよし)の住んでいる萩においても反乱が起こり、政府軍を指揮する兄と反乱軍を指導する弟が敵同士となる事態に陥ってしまいました。
西南戦争・・・軍旗喪失事件
萩の乱での弟の戦死、玉木先生の自決(多くの教え子が乱に参加した責任をとった)を悲しむ間もなく、西南戦争がはじまります。
西南戦争にて連隊を率いていた乃木は、熊本県植木の戦いにおいて混乱の中で明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われることになってしまいます。
乃木はこの軍旗喪失を軍人としてこの上なく恥じ、処罰を求めましたが不問に処されます。しかし、自らを許せなかった乃木は自害を図ったり、重傷なのにもかかわらず野戦病院から抜け出して戦地に赴くなど、自らを罰するように戦いに向かっていきました。
静子夫人との結婚
西南戦争の後も軍旗喪失に対して自責の念が絶えず、戦地に赴いては死処を求めているような乃木は、大酒を飲んで豪遊し気を紛らわすという日々を送っていました。
周りの人々は荒れている乃木のことを案じ、「奥さんをもらったら少し落ち着くのでは」と考え、明治11年(1878)薩摩藩士・湯地定之の四女・静子と結婚しました。
希典30歳、静子20歳でした。
翌年、明治12年(1879)に長男・勝典が、14年(1881)に次男・保典が誕生しました。
留学、日清戦争
ドイツ留学
大佐、少将と昇進した乃木は明治19年(1886)に陸軍制度の研究視察のためドイツ留学を命ぜられます。
ドイツでは任務を果たす傍ら、自国の伝統を大切にする質実な国柄と騎士道精神に触れ、自分の武士道精神をもう一度開眼させるという、今後の人生に大きな影響を与えるきっかけともなりました。
ここに軍旗喪失後の自分の生き方に一つの区切りをつけたのです。
軍の同僚や友人、知人は「さぞや乃木は西欧流のハイカラになって帰ってくるだろう」と思っていましたが、帰国した乃木は、ハイカラどころか、家でも外でもどこに行くにもキリリとした軍服姿で通すほどの合理主義者に変わっていました。
それまでと全く違った生活をする乃木の徹底ぶりは、普段の食事を稗にし、そばをごちそうとするほど無駄を削いだものでした。
乃木は、「日本の軍隊は精神や士気がまだまだ十分なものではなく、部下の模範になるべき幹部将校の心も緩んでいるので、軍人精神を高める努力を進めるべきである」と主張しましたが、近代化を急ぐ軍部の首脳によってこの精神論は退けられ、初めての左遷を味わうことになってしまいました。
日清戦争出征
一時軍を休職し、栃木県の那須野において農耕生活を営んでいましたが、乃木の意見は少しずつ軍の中にも広がっていき、その理解者の一人に明治天皇がいらっしゃいました。天皇は乃木の人となりをよく見ておられ、深い信頼を寄せられるようになりました。
しばらくして歩兵第一旅団長として復帰した乃木は、明治27年(1894)、勃発した日清戦争へ出征しました。
乃木の率いる部隊は各地で戦勝をおさめ、包囲された部隊を救うなど「名将乃木」の勇名を一段と高め、中将への昇進につながります。
台湾総督
日清戦争の終結後、新しく日本の領土となった台湾の総督に任命された乃木は一家をあげて台湾へと赴任します。乃木、47歳のことでした。
母・寿子はその2ヵ月後、台湾の地で亡くなることとなります。
乃木は台湾島民の治安維持と民生の安定のために全力を尽くしました。自らが模範となり役人に清廉潔白、質素倹約な生活を求め、日本と台湾の役人が心を一つにして、現地の生活習慣を大切にした徳のある政治を行えるよう目指しました。
しかし、官僚達の反対に阻まれ、明治30年(1897)2月、無念のうちに東京に引き揚げざるをえなかったのでした。
しかし、乃木が徳によって治めようとした姿勢は、後の総督にも影響を与え、台湾の日本人のイメージにつながっていきました。
辞任、そして善通寺赴任(第11師団師団長)
台湾総督辞任後、乃木は再び軍を離れ、時おり那須の別邸に出掛けては自然相手に晴耕雨読の生活を送っていました。
しかし、明治天皇は乃木中将の様子を心に懸けられ、香川県の善通寺に新設された第11師団の師団長をお任せになりました。
乃木はこの直々の心配りに感激し、来るロシアとの戦争にそなえて、全軍の規範となる師団を作るべく善通寺まで単身で赴任し、兵士と寝食を共にして部隊を見事に作り上げました。
日露戦争
日清戦争の後、欧米列強によるアジアの植民地化が進んでいました。
大国ロシアは清国東北部に進駐し、朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとして来ました。日本はそれを阻止すべく明治37年(1904)、ついにロシアと戦火を交えることとなります。
日露戦争のはじまりでした。
乃木は旅順要塞の攻略のために編成された第三軍の司令官として出陣することになりました。
それより前に長男・勝典、次男・保典も出征していたので、静子夫人に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と別れの言葉を残して戦地に赴いたのでした。
長男・勝典(26歳)戦死の報が届いたのは、青葉が茂る5月、出征を目前に控えた広島でした。乃木は日記にただ一言「他言せず」と記し、戦地に急ぎました。
戦地に上陸したその日に乃木は大将に昇進しました。
目指すロシア軍の旅順要塞は、事前の情報の3倍の兵力と火砲を備えた、近代戦至上もっとも堅固なものでした。
3度の総攻撃を行なっても旅順要塞を落とす事ができず、多くの人命を失い、武器弾薬が底をつき、国内では動揺と批判が高まっていきます。
決戦となった203高地の攻撃では、次男・保典(24歳)が戦死しました。それでも乃木率いる第三軍はひるむことなく敵陣を目指し、一進一退が続く激戦の末、翌年1月1日、凍える寒さの中、旅順要塞は遂に陥落しました。
いざ戦いが終わってみると、疲れきった兵士達は両軍入り乱れてお互い国のために尽くした健闘を称え合ったといいます。乃木は昨日まで敵であったロシアのステッセル将軍の元へ十分な葡萄酒や鶏、野菜を届けさせます。共に苛烈な戦闘を戦いぬいた兵士としてロシア兵をも労りました。
水師営の会見 ~ 乃木大将とステッセル将軍
1月5日、水師営という村にて乃木とステッセル将軍が会見する際、明治天皇は敗軍の将であるステッセル将軍の名誉を重んじるように伝えられ、乃木大将はその心を戴して会見に臨まれました。
世界に発信する写真を撮るべく集まった多くの報道陣に対し、乃木大将は国を挙げて戦ったステッセル将軍の武勇を称える写真1枚の撮影のみを許しました。
ステッセル将軍以下ロシア側の将校は軍装に勲章をつけ帯剣しています。降伏の将は帯剣は決して許されませんが、乃木は先の明治天皇の命をうけてこれを許していたのです。
2人の将軍は近づいて心からの握手をしました。会見の途中ステッセル将軍が2人の息子を失ったことに対して同情すると、乃木は「私の家はサムライの家なので2人の息子も晴れの死に場所を得て喜んでいるはずです。」と静かに笑って答え、ステッセル将軍を「日本の将兵の勇敢なことが今やっとわかりました。閣下のような名将がいればこそです」と驚かせました。会見は終始友好的に進み、最後にステッセル将軍からアラビア産の白馬(後に壽号と命名)が贈られました。
昭和初期の小学校の国語教科書には文部省唱歌「水師営の会見」が載せられていました。これは国文学者・佐々木信綱が直接乃木に確かめてその当時のあり様をうたったものです。
1月13日旅順への入城式が行なわれ、翌14日戦病死者大弔魂祭(慰霊祭)が斎行されました。
乃木司令官が自ら書いた弔辞を涙ながらに読む姿には、ヒゲ面の戦士達も涙を流さずにはおられませんでした。
これには日本語の分からない従軍記者らをも感涙せしめ、弔辞の翻訳が求められました。
その後、乃木率いる第三軍は北上し、3月に陸軍最大の決戦である奉天会戦に参加します。
旅順を陥落させたと恐れられていた第三軍は、クロパトキン将軍率いるロシア軍の執拗な攻撃を受け苦戦を強いられましたが、勇敢に戦い抜き、日本の勝利に貢献しました。
戦後
日本国民は乃木を「英雄」「凱旋将軍」として迎えました。
出迎えた人々の多くは旅順や奉天の戦いで肉親を失っていましたが、日露戦争が終わってから旅順と奉天の戦いがいかに困難なものであったかを皆知っていました。
また、2人の息子を失った乃木に対しての思いもありました。
しかし、乃木自身は多くの部下を戦死させてしまったという自責の念に満ちていました。
乃木は明治天皇の御前にて復命書を奉読した後、涙を流しながら「自分が至らず陛下の忠良なる将校、兵士に多くの死傷者を出してしまった。この上はただ割腹して陛下に謝罪したい」と言って退出しようとしました。
これに対して明治天皇は「乃木のつらい気持ちは理解したが、いまは死ぬべきときではない。どうしても死のうというのならば私が世を去ったのちにせよ」と言う意味の御沙汰で乃木を引きとめたといいます。
全国へ行脚
乃木は一人黙々と全国の遺族と傷病兵のお見舞いに回りました。
忠魂碑や戦没者の墓碑銘を依頼されると自らの責任として進んでしたため、傷病者のための病院を自費で造ったり、自ら“乃木式義手”を考案・改良にも取り掛かっています。
その他、国からの恩賞金で金時計を作り部下の将校一人ひとりを労って手渡したり、下士官や兵士に見舞い金を分配もしました。
ことに巣鴨にあった廃兵院(戦争によって負傷、障害を持った人を収容した施設)には毎月1、2度は訪れ、各部屋ごと一人一人を見舞い、いつも何か手土産を絶やしませんでした。
皇室からの御下賜品などをいただいたら真っ先に廃兵院に届けました。
廃兵達はこの乃木の厚い情に感涙し、来院を心待ちにしていたといいます。
学習院長
明治天皇は息子二人を亡くした乃木の心を察し、
「乃木も2人の息子を亡くして寂しかろうから沢山の子供を預けよう」と、明治40年(1907)に学習院長をお任せになりました。
この時乃木、59歳。
乃木院長は将来この国を背負っていく子供たちが、贅沢や我儘をしている風潮を心配されている明治天皇の御心をよく理解し、質実剛健(しつじつごうけん)をモットーとした体当たりの教育を行いました。
乃木院長時代には昭和天皇をはじめ多くの皇族の方々が在学されていました。
殊に幼い昭和天皇は乃木のことを「院長閣下」と呼び敬愛されていたといいます。
院長としての日々
乃木院長の一日は生徒や職員と共に、朝は生徒よりも早く4時半頃に起床、塩で歯を磨き、顔、手足、体を洗う。
軍人としての心掛けから、余分な水は決して使わない。それが済むと、寄宿舎6寮の巡視。雨が降っても雪が降っても一日も欠かすことがない。初夏から晩秋には、それに草刈が加わる。
終わって自室に戻り読書(音読)。
午前7時に生徒と共に朝食。親しく声を掛け、姿勢の悪い者には注意を与える。
7時半登校、8時の授業開始後は公務のかたわら各教室を巡視。一教室につき、始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って授業を傍聴し、生徒の勉強ぶりを観察する。
昼食は職員と共に職員食堂でとる。午後には武課、体操が行われ、運動場に立って生徒を注視する。
放課後には剣道が行われ、これは何よりも楽しみとして自ら生徒に稽古をつける。
5時に生徒と共に夕食。6時から10時までの生徒の自習時間に自室で読書(音読)。10時の消灯ラッパと共に生徒と同じく床に就く。
以上が乃木学習院長の一日の生活です。
乃木は、明治40年から大正元年までの5年間半、学習院院長を務めました。
その間、教育者として実践躬行の範を示し続けられたのです。院長就任の翌明治41年秋、東京の目白に新校舎が建てられ、乃木は、立派な院長官舎には入らず、中等科・高等科の全生徒と共に寄宿舎に入り、彼らと起居を共にしました。
酒豪かつ愛煙家であった院長は、一日の務めを終えてから自室で軽く一杯やっても構わないのですが、寮生活中は自制して禁酒禁煙を守り続けました。
院長が教室で直接生徒を指導することはほとんどないからこそ、寮に住み込み、生徒に接する時間をできる限り多くして、顔と氏名を一人残らず覚えるのみならず、一人ひとりの性格や気質を知ることにもつとめました。
また、剣道、水泳合宿、遠足等いつも生徒と行動を共にしました。
四谷には初等科、赤坂には女子部があって、週に何度かそちらに出向いて公務を統率し、赤坂の自宅に帰るのは月に1、2度。
この生活が殉死の時まで続いたのです。
乃木のこうした日常が、年少多感な生徒に多大な感化を及ぼさずにはおきません。
学習院の生徒は当時、華族の子弟が大半でしたから、贅沢に甘やかされて育った者が少なくありませんでした。
寮生活を不自由・不便に思う者もいましたが、明治天皇の信任も厚い天下の老名将が生徒と同じ生活をしているので、不平不満を言い様もなく、在任1ヶ月もたたないうちに生徒は乃木院長を慈父のように慕い敬い、皆「うちのおやじ」といい合うようになりました。
乃木は、郷里の友人に宛てた手紙の中でこう詠んでいます。
“寄宿舎で 楽しきことを数ふれば 撃剣 音読 朝飯の味”
殉死
明治天皇崩御
明治天皇が重い病気であると発表されたのは明治45年(1912)7月。国民は毎日のように皇居の前に足を運び、早く元気になられるように祈りました。乃木は1時間ほどお祈りをしてから、天皇のおそばに仕える侍従武官にその日の御容体を詳しく聞いて帰る日々を送ります。
たびたびお見舞いに来るので、天皇はその足音を聞かれただけで「また乃木が来た」とおわかりになるほどでした。国民の祈りも空しく天皇のご病気は快復に向かわず、7月30日61歳で崩御されました。
明治天皇を心の支えとして生きてきた乃木の悲しみは、計り知れないものでした。
殉死
大正元年(1912)9月13日、この日は国民が明治天皇と最後のお別れをする御大葬の日です。
午前8時、乃木と静子夫人は自宅にて写真を撮り、午前9時宮中に参内。
午後は自宅で地方から来た多くの客と過ごしました。
また昭和天皇に対して、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう伝えました。乃木がいつもと違うことを感じられた昭和天皇は「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞かれたといいます。
そして午後8時、桜田門外の近衛砲兵隊の弔砲を合図に寺の鐘が一斉に鳴り響きました。
この時、乃木御夫妻は明治天皇の跡を追ったのです。乃木64歳、静子夫人54歳でした。
御夫妻が亡くなった2階の部屋のテーブルには9月12日付で、乃木が次の人々に宛てた遺言書が置かれていました。
湯地定基(静子夫人の兄)殿、大館集作(乃木の末弟)殿、玉木正之(乃木の次弟・正誼の子)殿、そして「静子どの」・・・。
お別れ
9月18日、乃木夫妻の葬儀は、約20万の人々が見守る中で行われました。
日露戦争後、戦勝気分に浮かれ、白樺派や大正浪漫が芽生えるなど明治から大正へと時代が切り替わっていく中で、乃木が若い頃に軍旗を奪われた負い目を30数年間背負い続けこのような最期を遂げられた事は、多くの国民の心に強い感情を起こしたのでした。
乃木の殉死に対して海外のメディアも驚きと敬意をもって報道しました。
アメリカ・イギリスでは新聞で次のように書いています。
「…我が同盟国日本がその偉大さを負っている精神が、依然として生き続けていることの驚嘆すべきしるしである。…西欧世界は、仮にその意味を残りなく汲み尽せぬまでも、静かに頭を垂れて敬意を表さねばならない。故乃木伯爵のような人々が明治の時代をつくったのであり、この時代は、乃木伯爵がその身を献じた大帝(明治天皇)の崩御とともに、名実ともに過ぎ去ったのかもしれないのである。…」
乃木家には戦死した長男、次男の他に長女、三男がいましたが、その二人ともが幼くして夭折しており、長男・次男の戦死後は跡取りがいませんでした。遺言書にて乃木は、軍旗喪失の折りに明治天皇がお許し下さったことを最初にあげ、乃木家は自らの代で終わらせる旨を記していました。
水師営の会見の際、乃木の副官である兼松が記念に持ち帰った棗(なつめ)は、帰国後乃木邸に植えられました。
棗(なつめ)は株分けされ、春には全国で花を咲かせています。
乃木邸の棗(なつめ)の樹は3代目となり、今も庭に青々とした葉を茂らせています。